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課題研究1:
学力の国際比較をみなおす

課題研究2:
新興教育運動の社会史―中間報告―

公開シンポジウム:
「自ら学び,考える力」をどうとらえ,
いかに評価するか




 
報告者:
鈴 木   隆
(小金井市立南小学校)
河 原 尚 武
(鹿児島大学)
松 下 佳 代
(群馬大学)
指定討論者:
鶴 田 敦 子
(聖心女子大学)
司会:
成 瀬 満里子
(江東区立南砂小学校)
久 冨 善 之
(一橋大学)



























































まず鈴木氏が,「新指導要録の学力評価観を問う」と題して,ご自身の実践を中心に報告しました。
今年現任校に転任したばかりで,前任校の比較的「荒れた」状況とは異なって地域や子どもは落ち着いているということです。
とはいえ,「荒れて」いる子どもたちとそうでない子どもたちで,求めるものにはそう違いはなく,「友達あるいは教師とのかかわりの中から,自分にないものを学び,賢くなっていきたい」という願いは共通していると鈴木氏は述べました。

実践では,学級開きにあたり,「教室はまちがうところだ」という詩を読むところから始まり,「たかの巣取り」「あんず林のどろぼう」といった文学教材について,まず題名から内容を予想したり,少し読み進めては続きを予想し,それを子どもたちが発表するという様子が,教科通信や作文などの資料を交えて紹介されました。
子どもたちは,最初なかなか発表ができないけれども,友達のフォローなどもあってだんだんできるようになっていくということです。

その他,社会科や算数の実践も紹介されましたが,共通しているのは,上述の「他者とのかかわりの中で賢くなる」ということであり,それは,卒業生からの年賀状や現在教えている子どもたちの積極性(前学年で算数が苦手だったが,現在は張り切って勉強しており,ファックスで鈴木氏に質問してくるなど)によって立証されていたといえます。

ひるがえって,昨今,たとえば「総合的な学習の時間」や他教科も含め,研究授業などでの指導主事のコメントで「個人の学び」が強調されることに鈴木氏は疑問を呈しました。
校内での議論の中でいろいろ詰めていくと,「1人の学び」が本当に成立するのは高校生くらいかなという本音も出たということです。

今の子どもたちは,放っておくと「塾で習った」と授業にそっぽを向いたり,「低学力」の子はそのままになったりとバラバラになりがちであり,だからこそ「学びあう」ということが大切だと鈴木氏は結びました。

河原会員は,「『教育課程』編成の原理を問う―教科外教育の観点から」と題して報告しました。
冒頭に河原会員は,本シンポジウムの論題にある「自ら学び,考える力」という文言にかかわって,昨今の教育論(官民問わず)における「言葉の軽さ」,言語的表象におけるリアリティの欠如(問題を正面から検討するのでなく,俗耳に入りやすい言葉で逃げる傾向)を厳しく批判しました。
具体例として河原会員は,某県教育委員会が「新学力観」について,一定の「反省」(新しさを強調するあまり,基礎学力定着のとりくみの弛緩を招いた云々)をしつつも,基本的に学校関係者の「誤解」「旧態依然」に問題の原因を求めていることをとりあげ,行政の責任回避のメカニズムについても刃を向けました。

その上で河原会員は,文科省関係のさまざまな文書から「自ら学び,考える力」「生きる力」などにかかわる用例を検討し,これらの内容が基本的には「社会の変化に主体的に対応」「自らを振り返る」など,これまでの教育行政で言われてきた「構え」の強調であり,「社会の変化」についていかざるを得ない受身の人間像が想定されていることを指摘しました。
とくに「生きる力」(ちなみに文科省HPの英語版ではZest for living)については,いっけん空疎で無内容(であるがゆえに無害)のようにみえるけれども,たとえば小杉文相(当時)による中教審への諮問文「幼児期からの心の教育の在り方について」(1997年8月)にみられるように,「生きる力」の「礎」としてある種のモラリズムがはっきりと想定されていることを強調しました。

さらに新指導要録における教科外教育の評価の問題に論を進め,特別活動の評価趣旨における「自己」の強調,「行動の記録」(これは一部誤解があるように特別活動だけの話ではなく,教科等も含め,学校教育全体にかかわると河原会員は強調しました)などから,文科省がめざす人間形成の方向性について,「教科では新自由主義,教科外では古い国家主義ということではなく,あくまで中心にあるのはある種のモラリズム」だと河原会員は述べました。

最後に河原会員は,新学習指導要領の特別活動におけるボランティアやガイダンスの強調と対比的に,自身の考える教科外教育の構想について紹介して報告を閉じました(下図参照)。






松下会員は,「教科教育・学力論の立場から」と題し,「『自ら学び,考える力』とはどういう力か」「それをどう育てるか」「それをどう評価するか」について報告を展開しました。

まず,「自ら学び,考える力」についての松下会員自身の定義(定義1)が
「あることをなすために,既有知識を使って思考を働かせ,その結果,新たな知識が理解をともなって獲得される,そのような過程を通じて,対象世界を広げていく力」
と提示された上で,これと文科省側の学力観の「二重の誤り」((a)知識と「自ら学び,考える力」を切り離し,(b)知識については「量」のみを問題にしている)が対比されました。

とくに松下会員が専門とする数学教育にかかわっては,「『わかった』と『わからない』を識別する能力と,その基礎としての『わかった!』という経験」「前記の経験に伴う強い情動と自己の学習可能性への自信=さらなる学習への原動力」の重要性が強調されました。

次に松下会員は,「どう育てるか」にかかわって,エンゲストローム(Engestrom, Y.)の活動モデルを援用しながら,「自ら学び,考える力」を育てる学習活動のプロセスとして重要なのは,(たとえば数学の授業なら)学習活動が数学的世界だけで閉じているのでなく,「現実的問題を解決するという《対象/動機》に対して,数学の概念・技法を《心理的道具》として獲得し,それを使って現実的問題の解という《結果》がもたらされる」こと,問題解決の正否のフィードバックが教師から(の「正解/不正解」といった評価で)もたらされるのでなく,対象世界から与えられ,またその正否について内省する機会が与えられること,などだと主張しました。

さらに,教科だけでなく「総合的学習」を視野に入れた場合,学びの共同体の組織や問題へのアプローチなど,活動システム自身を子どもたちが構成することになるので,そこでは先の「自ら学び,考える力」の「定義1」は,
「学びの場を自ら構成し,学習のプロセスを展開していく力」(定義2)
も含むよう拡張されなければならないと松下会員は指摘しました。

最後に,「どう評価するか」については,上で述べられた学習活動のあり方にすでに評価(とくに形成的評価)がくみこまれているとした上で,松下会員は,国立教育政策研究所による「評価規準」について,「学習の断面をスナップショット的に捉えることはできても,ダイナミズムは捉えられない」「いっけん細かく設定されているが,知識獲得のポイントは必ずしもおさえられていない」「目標の問い直しにつながらない」などの問題点を指摘しました。

以上の報告をうけて,指定討論者の鶴田会員は,「自ら学び,考える力」について,文科省のいう内容を「組みかえる」というスタンス(とくに松下会員)でよいのかどうか,教育課程の原理とその編成手続きをどうするのか(指針として教基法を確認する必要性,「代行主義」の克服との関係で,子ども参加をどう実現していくのか),いま子どもが求めているのは本当に「自ら学び,考える力」なのか,などの論点を提起しました。

討論での発言は多岐にわたり,それらをもらさず,しかも簡潔にまとめるのは困難ですが,文科省のいう「自ら学び,考える力」が,しばしば「総合的な学習の時間」,しかも「児童・生徒が自らの興味・関心にもとづいて設定した課題」型での学習活動を範型として語られることとの関係では,3人の報告者がそれぞれ,他者とのかかわり,集団(あるいは共同体)の重要性を強調していたことは示唆的だと思われます。

「全国的・総合的な学力調査」と「学校の自己点検・自己評価」の連動,「学力低下」批判をうけての各自治体での学力テスト実施の動きの中,「自ら学び,考える力」自体が,「個々人がバラバラにテスト用紙に向かう」という旧態依然たる「評価」イメージに回収されていく危険が大きくなっていることもあり,今回のシンポジウムをうけてのいっそうの研究が本学会に求められています。
文責:山 崎 雄 介
(京都光華女子大学短期大学部、学会事務局)