
講演会
生活指導研究の成果と課題
課題研究
学校の受容過程と「教える」ということ
公開シンポジウム
教育の成果をどう検証するか |

講演会
生活指導研究の成果と課題 |
講 師: |
舩越 勝(和歌山大学) |
司 会: |
川地 亜弥子(神戸大学) |
教育目標・評価学会の大会では,これまでも充実した課題研究やシンポジウムが企画されてきており,毎年多くの貴重な報告がなされてきました。しかしながら,課題研究やシンポジウムの場では,1人の研究者のまとまった知見を聞くことが難しいという状況があります。この点をふまえて新たに設けられたのが,講演会企画です。今大会の講演会では,和歌山大学の船越勝会員に,生活指導分野における実践や研究の蓄積と今日的な課題について,全国生活指導研究協議会(全生研)の理論と実践を中心にご講演をいただきました。
講演の最初に,「生活指導とは子どもの人格の全体像を対象とする」という点が確認され,1.子どもの変容をどうとらえるか,2.集団づくりの新しいすじみち,3.「現実認識・文化・自治」の視座からの生活指導と集団づくりの転換と再定義,という流れで講演がなされました。
1.子どもの変容をどうとらえるか
最初に,90年代以降の新自由主義政策のもとで,子どもの育つ基盤が変化してきたことが述べられました。現在の日本においては,湯浅誠の貧困論で言うところの「『溜めのなさ』としての貧困」という状況が生じており,金銭面だけではなく人とのつながりも乏しくなっています。このような貧困の背後で,子どもたちが教育や福祉から,そして自分自身からも排除されて,自己肯定感の持てない状況に陥っていることが指摘されました。さらに,育つ基盤の変化が子どもの発達の各段階に与える影響について言及がなされました。幼児期においてはネグレクトや早期の競争的な教育が,少年期においてはギャング集団の喪失や学級崩壊が,青年期に置いては管理主義における抑圧や「よい子」としての生き方の強制が,他者との信頼関係を築くことを妨げている現実があります。その結果,他者との信頼関係を経験してこなかった子どもたちが増えており,人間に対する基本的信頼を紡ぐ実践が求められているとの指摘がなされました。
人間に対する基本的信頼を紡ぐような実践においては,「根拠のない自信」が重要性であると確認されました。「根拠のない自信」とは,過去の成功体験をふまえた根拠のある自信と異なり,「やったことはないけど,きっとできる」と思える状態を指します。これは,失敗の許される環境で未知の挑戦を行うことなどによって育まれていくと考えられています。ここで,人間関係に対するこのような「根拠のない自信」,すなわち他者への「根拠のない信頼」が,集団づくりの前提条件として重要なものであると指摘されました。そして,他者への「根拠のない信頼」を育むことを考える上では,城丸章夫が70年代初頭に生活綴方の検討を通して提起した「民主的交わり」の考え方が参考になることが述べられました。また,このような「根拠のない信頼」を持たない子どもたちを対象とする集団づくりでは,入り口でのトラブルを生まないために,敢えて抽選などの形式的な班編成を行うことや,他者同士の間に成立する公共性の指標として学級目標を明示することなどの工夫が必要であるとされました。さらに,実践に臨む教師は,何度裏切られても子どもを信頼し続ける姿勢を持つ必要性があると主張されました。
2.集団づくりの新しいすじみち
次に,以上のような子どもの変容をふまえつつ,従来の全生研の主張と照らし合わせながら,集団づくりの新しいすじみちについて論じられました。90年代以降,教科の学びに関する実践も集団づくりに含めるという外延の拡張が起こる一方で,「集団づくりとは何か」という内包が曖昧になっているという状況があります。ここで,集団づくりを描いていく上では,@学級という枠を外すことと,A子どもという発想の枠を外すことが必要であると主張されました。@については,習熟度別学級編成などによる学級の性格の多様化や,学級以外を対象とした実践の広がりが挙げられました。これに加えて,そもそも集団づくりにおいては,集団の発展の中で基礎集団を地域の子ども集団などへ返していくことが目指されていたことも指摘されました。またAについては,子どもという発想の枠にとらわれた実践は,教師の家父長的・権威主義的な性格を取り込みやすいという問題点が挙げられ,反対にこの枠を外すことで,教師集団など大人の集団にも視野を広げることにつながるという利点が示されました。
次に,集団の発展段階のとらえ方について,従来の寄り合い的段階,前期的段階,後期的段階という区分とは異なる見方が示されました。現在の生活指導をとりまく状況としては,個人と集団をめぐる関係の変化や,個人の人権を尊重する時代感覚が存在します。そのため,個人の人権を基礎として,学級ではなく学校レベルで考えること,弱者やマイノリティの視点から学級の在り方を問うことが必要になってきます。これらをふまえて船越会員は,前自治的段階,自治的段階,自律的段階の三段階で集団の発展をとらえることを主張しました。前自治的段階では,学級内に居場所が全くないことを前提として,根拠のある信頼をまず作ることを目指します。次の自治的段階では,集団の中で排除されている弱者やマイノリティの持つ要求を視座として世論を作り上げること,すなわち「対抗的公共圏」を築くことのできるリーダーがどの程度いるかによって,発展段階がとらえられます。この段階においては,従来の集団づくりが陥りがちであった,教師の下請けとしてのリーダーシップを乗り越える必要があることも指摘されました。最後の自律的段階は,集団的・個人的自律性によって特徴づけられるとされました。
さらに,班づくり,核づくり,討議づくりのそれぞれが目指すべきものについても,従来とは異なる新たな見方が示されました。すなわち,班づくりにおいて目指すことは,平等原理を教えること。核づくりにおいて目指すことは,自己決定を教え,従来の指導−被指導という規定ではなく本人の自由意思に基づいたリーダーシップを育てること。討議作りにおいて目指すことは,異論を引き出しながら公論を立ちあげ,自己決定=共同決定を導き出し,言説の空間としての「公共圏」を創り出すことであると述べられました。以上のような考え方は,近代の立憲主義の考え方で集団主義を再定義することであると整理されました。
3.「現実認識・文化・自治」の視座からの生活指導と集団づくりの転換と再定義
最後に,「現実認識・文化・自治」という視座から生活指導と集団づくりを転換し再定義する試みが示されました。まず,実践と理論の両面から課題が整理され,これらの課題を乗り越えるような実践の在り方が,実例も交えつつ報告されました。実践的課題としては,「良い学級を作らねば」という意識のもとに,学級の枠に過剰にとらわれた実践が行われがちであること,個人指導と集団の指導を結合させるような取り組みが弱く,自治の追求も弱いこと,個々人の生活現実の困難さと教室での実践の接点が弱いことが挙げられました。一方の理論的な課題としては,従来の集権的な考え方から分権的な考え方へとシフトする必要があること,集団づくりのすじみちに関する理論化が後退してきてしまっていることが挙げられました。これに対して,集団づくりを行う際に一定の見通しを持つことは必要であること,またそこで行われる集団づくりにおいては,1人の強いリーダーが集団を引っ張るのではなく,多様なリーダーが存在する状態,すなわち分権的なリーダーの在り方を模索する必要があることが指摘されました。
このような中で,班づくりにおいては,子どもたちの問題の背景には生活現実におけるマクロな矛盾が存在することを認識し,それを共に学びあっていくような実践の必要性が指摘されました。次に核づくりにおいては,教師の目指すものを汲み取って実現していくようなリーダーシップではなく,教室の様々な子どもたち,特に困難を抱える子どもたちの心の声に応答ができるようなリーダーシップであるべきだと述べられました。また討議づくりにおいては,集団の力の源泉を何に求めるのかという議論に言及されました。そして,物質的・物理的なものに求める方向に流れてきたことに対し,知的・倫理的なものの復権が必要であると主張されました。さらに,教師のヘゲモニーが確立できない中でゼロ・トレランスが流行する現状を取り上げ,知的・倫理的なものの力を軸としたヘゲモニーの再構築の可能性について示されました。
ここで,以上の論点も含みこみつつ,現実認識を通じた文化の再構築に取り組むような実践として,大分の溝部実践が紹介されました。溝部実践では,勉強が苦手で自分に自信を持てない児童に対して,対極的な性質を持つ児童とペアを組ませて友情を育ませる中で,双方が自分の良さに気付いていったこと,それが月に一回の「詩の時間」で詩や作文として表現できるようになっていく様子が示されました。そして,詩を書き,それを読み合う実践は,教室でのトラブルを表現文化として昇華させることも可能とし,また生活現実に根ざした文化創造を通して自己認識を組み替えることにつながると評価されました。
最後に,生活綴方との関係,さらには福祉との関係から今後の生活指導の在り方に関する考察がなされました。生活綴方との関係については,従来のような,仲良し集団かケンカ集団かという二元論的評価が理論的にも実践的にも適切ではないと述べられました。特に,個々の組織に解消されない関係性の問題や,人間の意識が持つ固有性に注目する点は生活綴方独自のものであることが確認されました。そして,書くことを通して認識そのものを鍛え,自律的な人格を育てるという生活綴方の提起は,行動の指導に解消されないものであると評価されました。一方で福祉との関係性については,分裂していたものの全体性を回復していくという意味で癒し(ヒール)をとらえていくことの重要性が述べられました。特に,「生活指導とは,生活を指導するのではなく,生活そのものが教師や子どもたちを指導するのだ」という原則に立ち返る時,子どもの生活行動の全体性を取り戻していくという課題のもとで,積極的な癒しの役割に注目していくことの有効性が主張されました。さらには,生存権保障としての地域生活指導運動も視野に入れるべきであると指摘されました。
質疑応答の時間には,フロアより以下の二点の質問が出されました。1点目の質問では,「生活指導という概念を通じて問題にできる固有のことは何か。また,領域か機能かという問題をどう考えるか。」ということが問われた上で,「綴方教育の遺産を拾い上げる一方で,大西や竹内は集団自治との関係でシティズンシップ教育や政治教育との関係も論じていた。新自由主義に対抗するものとして,シティズンシップ教育が世界的なキーワードになっている現在,どのようなことが論じられるか。」という質問が投げかけられました。これに対して船越会員からは,生活指導は教科外の位置づけが確かに大きいが,教科の中でも考えられるべきことであり,機能と領域にまたがる概念としてとらえるべきであると説明されました。また政治教育と関係については,もともと大西の班・核・討議づくりがレーニンの国家論を下敷きとしていることを指摘した上で,ポスト近代ではなく近代民主主義の水準に立ち戻って論じ,立憲主義的な考え方に則って集団作りを再定義していきたいと述べられました。そして具体的には,班には平等原理が,リーダーには自由意思が,話し合いには友愛性が問われると定義しなおしてはどうかと主張されました。
2点目の質問は,「学級内での優れた実践が多く報告される一方で,学校レベルを見たとき,学校評価や教師評価による教師の孤立という問題がある。生活指導の中での教師集団づくりについて実践的動向があれば教えてほしい。」というものでした。これに対して船越会員からは,小田原の旭丘高校や長野県辰野高校の例が挙げられ,教職員集団単独での民主制を問うよりは,学校を構成する子どもたちや,保護者,地域住民との関係の中で,どれだけ民主的集団を作り出していけるかを考える方がよいという応答がなされました。
さらに,これら質疑応答をふまえて司会の川地会員より,「学級の中での学びの盛り上がりが市民の活動への接点になる。一方で,『学級にとらわれない』と表現してしまうと,学級内での取り組みのないまま『地域の活動にかかわっていますよ』というアリバイ作りのような実践になってしまう危険もある。」という指摘がなされ,さらに,「学級にこだわらないにせよ,教師がどのように子どもたちの活動を組織できるのかという専門性が重要である。2点目の質問の背景には,教師自身の自律性の問題があったのではないか。教員評価などに縛られる現状の中で,自律性をどう実現するか。」という問題提起がなされました。これに対して船越会員からは,「学級の持つ保護性の中でスキルを高めることは大事である。ただ,学級を閉じてしまって外との関係が切れると,生活現実に根ざした生活指導にならない。学校内・学級内でスキルを試しながらも,最終的には自由意思で学校外の生活・社会にかかわっていくことを目指すという二重性が重要になってくる。」という応答がなされました。また教員評価の問題については,「子どもたちが,自分の要求に応える実践を先生が行っているかを評価する『下からの評価』と上からの教員評価を照らし合わせることで,どちらに妥当性があるか見えるのではないか。」と指摘されました。
最後に川地会員より,生活綴方のほうからも,生活指導の成果に学ぶ動きがあることが指摘され,そこでは,「何を書くか」「何をしたいか」を自分で決めることが重要な位置を占めていることが述べられました。そして,要求を聞いてもらえる,そこに人間関係の支えがあることの大切さ,また現代的な困難さについて学ばせてもらえる講演であったという感想が述べられました。 |
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