index > 中間研究集会



2007年6月16日
  日本の学校接続の課題
   ―欧州の動向を踏まえて―


2006年6月10日 
  糸賀一雄の魂と思想


2005年7月9日 
  新しい世界の発見、新しい自分の発見
   ―『学力への挑戦』とその後―


2003年5月10日 
  高等教育の人づくりと,企業社会の人づくり
    ―目標・評価論における,
       教育学の固有性とはなにか―


2001年4月28日 
  指導要録改訂で評価はどう変わるか

1998年5月31日
  第1部:教育課程改訂の彼方に21世紀の
       評価研究をどのように展望するか
  第2部:教育改革の展開に即して,二度に
       わたる教育課程改訂の特性を明ら
       かにする




 


1998年5月31日


第1部「教育課程改訂の彼方に21世紀の評価研究をどのように展望するか」(12〜14時:座長・大津悦夫会員),第2部「教育改革の展開に即して,二度にわたる教育課程改訂の特性を明らかにする」(14時30分〜16時30分:座長・大麻南会員),その後研究委員会の課題ごとの研究交流会,というプログラムで,秋の大会(一橋大学)につながる,実践的,理論的な課題を明らかにしました。参加者は40名を越え,盛会でした。


第1部まとめ
第1部では,まず藤岡秀樹会員(岩手大学)から「総合学習,生活科,教科再編と指導・評価のあり方を中心に」というサブタイトルで提案があり,ついで田中耕治会員(京都大学)から「教育評価論の新しい地平を求めて」というサブタイトルで提案があった。

藤岡提案では,まず,教育課程審議会「中間まとめ」の概要を,「教育課程の基準の大綱化・弾力化」など8点にまとめたうえで,その問題を,@2002年5日制完全実施のために年間70単位削減をいう一方,「総合的な学習の時間」を新設するので,現場では差し引き厳しいのではないか,A「総合的な学習の時間」は教科ではないとされるが,何をどのように教えるのか,B教育内容の厳選はどのように行うのか,さらに,指導・評価観の問題については,おおむね「新学力観」を反映したものであるが,キーワードの[生きる力]などが一人歩きしているのではないか,などと指摘された。

さらに藤岡会員は,「中間まとめ」では,「総合的な学習の時間」が,社会の変化に主体的に対応できる資質や能力の育成の点で,教科の枠を超えた横断的・総合的な学習を円滑に実施するため,小学校3年生から高校まで新設され,内容は,国際理解・外国語会話,情報,環境,福祉などについて学校の創意工夫で実施されると紹介し,週3時間年間150時間で,評価は所見欄での事実のみの記載になるのではないかとの見通しを示した。

そして問題点としては,
@何をどこまで教えるのかが教師一人のさじ加減にならないか
A認知を評価しないとなると,評価不要論(特に形成的評価)へ傾斜しないか
B教科である「生活科」との継続性・連結性はどうなるか
C一人の教師の専門領域を越えた総合的な内容をつくるために,教材開発・研究を全教員・学校ぐるみで行うゆとりがあるのか
D「支援は子どもの立場で,指導は教え込み」という誤解で,指導のないたんなる活動にならないか
E道徳性との関連の強調が「第2生活科」になる危険性をもつのではないか,道徳の応用時間になるのではないか
などと指摘された。

現行生活科では,上記の問題がおこり,格差はあるものの,活動で終わって時間切れになったり,パターン化がすすんでいたりすること,研究開発校での「記号科」「表現科」「生活環境科」は「総合的な学習の時間」を想定している面があるが,そこでも上述の問題があることも報告された。


田中提案では,「中間まとめ」などでの自己評価への言及と,「教育評価」が「焼きゴテ」とイメージされるような現状に対して,21世紀を展望し,「『表現』を基礎にした形成的評価」が提起された。
これは,安彦忠彦氏が「子どもたちが自分で自分の人となりや学習の状態を評価し,それによって得た情報によって自分を確認し今後の学習や行動を調整することである」というような自己評価を,庄司和晃氏にならい,教育評価の本質的契機ととらえ,それを到達度評価と内在的に結合しようという提起で,これまでの到達度評価の「形成的評価との緊張関係の中で,自己評価能力を形成するという発想の乏しさ」を克服することになるという。
国分一太郎などの生活綴方における「ふたつのリアリズム」という方法原理は,子どもの現実への「リアリズム」を促す指導それ自体が,教師が子どもをつかむ「リアリズム」となっているという関係があり,先の提起はこの今日的発展である。(田中「戦後教育評価観とその今日的課題」,『たのしい体育・スポーツ』1996.2)

具体的な評価方法について,「作問法」「状況説明法」「ポートフォリオ法」などについて言及があり,そこでは基礎的な学力の段階と発展的な学力の段階にそれぞれ適した方法の選択が行われる必要があることが指摘された。
評価方法の開発は単なる技術的な問題ではなく,教育の持続的な改良にとって本質的な営為であり(タイラー),「教育評価の改善なくして教育改革はないという共通認識」を成立させようという訴えで提案は結ばれた。


討論では,既存の教科,その合科のどこが問題で「総合的な学習の時間」の提起になったのか,「学び方の習得」は到達度評価ですでに取り上げられていることではないのか,新しく「環境」といわずとも,生産・消費・還元をキーワードに教えられる内容なのではないか,など,「中間まとめ」などの「総合」の方向が,はたして「新しい」ものなのか,それにふさわしい内容があるのかどうか,と疑問がだされ,引き続き教課審の主張や研究開発校の実践を丁寧に分析しつつ,教科をめぐる総合・分化の原理について深めることが課題として明らかになった。

田中氏の提起に対しては,自己評価を組み込んで成立している「教育評価」を,自己評価と並立させてしまうことは,教育評価をあいまいにするのではないか,との疑問がだされた。また,「自分探し」によって「何でも言える」状況を教師の参入によってつくりだした生活綴方が,相互の同情に終わって概念を作るルートをつくれなかったという弱点をのりこえてほしいとの意見もあった。

田中氏は,実践と引き合わせて提起の再構築を行うと応えた。
 


第2部まとめ
 第2部では,久冨善之会員(一橋大学)から,「新自由主義の教育課程改革--この間の教育課程改訂の特性を,学校文化論から仮説的に検証する」と題する提案があった。

提案ではこの間の流れを,91年の新指導要録より「新学力観」が権力をバックに教育界を席巻するという事態が生まれ,渡辺治氏のいうように,「大競争時代」の「教育自由化要求」の本格化・切実化,現行教育の「三重の意味での不効率(財政・賃金・荒廃)」の認識が「文部省の転向と,自由化論への屈服」を生んだ,と見る。
そして,「学校文化の社会学」の立場から,77教育課程改訂の背景としてすでに課題となっていた問題が,今回の教育課程改訂をめぐる動向により,どのような行方になるのか(=「今日何が大事な課題か」)について,3つの視点で検証課題を提起された。

第一に,過密カリキュラム問題の行方に関して,沖津由紀氏の「教育内容の制度化過程--学習指導要領(算数・数学)の内容の変遷より」(『教育社会学研究』54集,1994)を紹介しつつ,教課審と学習指導要領が,「学校知識の自己肥大化」運動を制御できない「無力さ」を露呈しながらも,過密化・困難化したカリキュラムを学校現場と子どもたちに「強力」に強要してきたが,その反省がないままであると指摘した。

 第二に,学力格差問題の行方に関して,「学校での勉強の得意・不得意」が子どもたちの学校体験をほとんど別種のものに大きく分化させていた(学校体験調査1987年)と述べ,93-94学力調査について文部省は「おおむね良好」「新学力観の指導をより徹底させる必要がある」としているが,分析してみると「学力格差」は極めて大きいと思われ,「新学力観」の目標・評価体制は,学力獲得競争の圧力を緩和しないまま,さらに「人格・態度評価」競争の圧力を子どもたちの上に加えており,「偏差値競争克服」「個性の尊重」「意欲を引き出す」などのうたい文句のようにはなっていかないのではないかと指摘した。

第三に,教師の多忙化と消耗問題の行方に関して,日本に特徴的な「献身的な教師像」が強いほど,個人も集団もバーンアウトに傾く(首都圏F市公立学校教師調査1991年)ことが紹介され,忙しく献身的に働いてもそれがもはや親にも子どもにも共有されず,教師を追いつめ,支えになっていないと指摘された。

中間的な提起として,現在の審議会は利害集団の集中と調整の場であって,日本中の英知を集めている場でない,と問いかけ,自己の歴史的な行為を直視も反省もしない「教育官僚機構傀儡審議会」は解散し,「子ども・父母・教職員が参加する学校運営と学校カリキュラムづくり」へ転換し,学校知識・子どもたちのアイデンティティー・教師たちの職業文化,それぞれを組み込み展開した,21世紀の学校の在り方を考えていくことが提起された。

討論では,「自己肥大化」運動は,教育知識が自明になることで安定化し,その点では受験と国家の共犯関係で自明視がすすんでいるが,到達度評価などはその自明性への挑戦だとの補足説明があった。より多くのことを学びたいという子どもの権利を大切に見ながら,文部省の「転向」は,果てしなく学ばせることを通しての秩序維持への転換だという意見も出た。
子どもや教師の実態については,滋賀や大阪での調査の紹介があり,もっと多くの調査を集めることが課題となった。教師の専門職性が共通の理解となったことに今日的意味があるとの指摘もあった。
「対案」作成については,教職員組合の動向も批判的に検討するよう希望が出た。
数教協の「足し算の論理」でのカリキュラム提案などが紹介され,また,社会の影響をもろに受けて,「受験科目の時間の増加」をいう父母に対して,子どもを通して教師の実践が反映し,いろいろな教科が子どもの成長にとって必要であるという認識にいたった教育懇談会の例も紹介された。
大綱的な対案を出し,それが教育実践を通じてじわじわと共通化していくのがよいとの説明が久冨氏よりあった。

これらの企画の後,「指導過程の構造」「教育評価の行政・政策」「教育史研究」の3グループの研究交流会が行われた。

文責:加 藤 聡 一
(京都大学)