index > 中間研究集会



2013年6月1日 
  教員養成における”質”保証の論点は何か?

2012年6月9日 
  授業に活かす評価のあり方をめぐって

2011年6月11日 
  教育目標・評価研究の20年を振り返る
 
2010年5月22日 
  専門職として学び合うコミュニティを
     支える評価の構造


2007年6月16日 
  日本の学校接続の課題
   ―欧州の動向を踏まえて―


2006年6月10日 
  糸賀一雄の魂と思想


2005年7月9日 
  新しい世界の発見、新しい自分の発見
   ―『学力への挑戦』とその後―


2003年5月10日 
  高等教育の人づくりと,企業社会の人づくり
    ―目標・評価論における,
       教育学の固有性とはなにか―


2001年4月28日 
  指導要録改訂で評価はどう変わるか

1998年5月31日
  第1部:教育課程改訂の彼方に21世紀の
       評価研究をどのように展望するか
  第2部:教育改革の展開に即して,二度に
       わたる教育課程改訂の特性を明ら
       かにする






2005年7月9日

新しい世界の発見、新しい自分の発見
       ――『学力への挑戦』とその後――
仲 本 正 夫
司会:田 中 耕 治
(京都大学)



 仲本先生はまず,教師になったいきさつについて,以下のように話してくださいました。
 大学時代は,ワンダーフォーゲル部の活動に夢中になっていた。その結果,授業にはほとんど出ず,自然科学系の授業はのきなみ不可をもらった。この経験によって,「わからなくなる→やる気がなくなる→わからなくなる」という,落ちこぼれの悪循環を味わった。その後,鹿児島建設に就職するが,全然合わなくて毎日会社に行くのが嫌だった。会社から帰ってきて社会科学全般を勉強しなおした。この独学での勉強によって,生きるための勉強があるんだと目が開かれ,2年で会社を辞めた。その後,東京の山村女子高校で教職に就いた,ということでした。
 仲本先生は,山村女子高でのご自身の教師生活を,(1)チョーク1本の時代,(2)授業の転機,(3)授業改善の時代,(4)3学期授業づくりの時代,(5)高校3年間の授業づくりの時代,に分けてお話ししてくださいました。

(1)チョーク1本の時代(1967〜1974年)
 当時の山村女子高は,新設の高校であり,ほとんどの生徒が卒業後就職する商業科だった。校内での事情により,就任3年目以降33年間,担任を持つことはなかった。就任当時は教材開発をすることもなく,教科書の内容に沿って,チョーク1本で授業をしていた。夏休み,教師たちは校長に研究論文を課された。そこで,どうせ書くなら役に立つものを書こうと素材を探していて,遠山啓『数学入門』に出会った。これを読んで,数学にも新しい世界があると気づいた。

(2)授業の転機 上田町子との出会い(1975年)
 担任でなくても,生徒達とつながっていきたいという思いがあった。そこで,1学期中間テストの感想としてレポート課題を出した。2クラス(1クラス50人くらい)分の感想の中でも,上田町子の感想「せめて30点とりたかったよ」に最も胸を打たれ,通信「数学大嫌い」の中心に載せた。また感想を読んで,自分の授業の中でどん底に落ちていく生徒がいる,ということに気づいた。2学期末テストでは,上田町子は40点を取り,少し変わってきているように見えた。落ちこぼれの悪循環を断ち切り,正面向いてやればできる,と思った。3学期の5段階相対評価についての授業では,上田は授業そのものに実際に参加してくるようになった。卒業試験では,「すごいです」と担任が報告してくるほど集中して,一度も顔を上げずに取り組み,100点を取った。また,感想を書いてもらうためにわら半紙半分を配っていたが,彼女はレポート用紙一枚にびっしり書いてきた。この経験を経て,生徒を扱う原点が決まった。生徒の中に眠っている要求「本当はわかりたい」「本当は点数とりたい」という思いを読み取れるようになった。

(3)授業改善の時代(1976〜1986年)
@折り紙と「私の数学12年」
 教室に折り紙を持ち込み,「できるだけ容積の大きい入れ物を作る」という授業をした。たった1枚の折り紙で授業の雰囲気がまったく変わる,ということを実感した。また「私の数学12年」という題で数学書を書いてもらう,という実践をした。

A本質のわかる積分の授業づくりへ
 この頃,小学校や中学校での授業づくりに刺激を受けた。たとえば,因数分解の授業で,折り紙を使ったおもしろい教え方があることを知った(仲本先生が実演してくださいました)。因数分解ひとつとってもこんなに面白い教え方があるということを小学校・中学校の先生は知っている,高校の微積分でもこんな教え方をしたい,生徒をどん底に落としていってはいけない,と思うようになった。
 そのように考えているとき,中原宣の微積分の実践と出会い,微積分でも楽しい授業ができるということを直感した。夏休みの研究論文はこの教材で突破すると考え,教材を研究論文として出した。この頃から,本質の分かる楽しい授業づくりへと向かっていった(当日は,ここで積分についての「てんびんの実験」を実演してくださいました)。
 現在は,分数の計算など,本質を理解するために専門的に教えなければならない部分を経験主義で教えてしてしまっている。この事態は危険だと思う。

B分析・総合という本質がわかる授業づくり
 遠山啓の著書に「虫眼鏡で1円玉を見たら直線に見える」という箇所があり,実際に虫眼鏡で見てみたが直線には見えなかった。もっと狭い範囲で見ないとダメだと思い,顕微鏡で見るということをやったら,直線に見えた。このとき,「曲線は直線だ」ということを実感としてつかんだ。
 直線の1円玉を見ることで,「傾き=1あたり量」ということがわかる。この前に,かけ算は「1あたり量×いくつ分=全体量」ということであり,足し算の簡略化ではないということを押さえておく。そうすると,傾きは,水平1に対して高さいくつということがわかってくる。このように,かけ算を高校で勉強し直すと,中学での速度の問題,高校の微分の問題が,「1あたり量」という考え方を使って貫いて理解することができる。
 関山フキ子という生徒は,積極的だけれど重心が求まっていない感じがする生徒だった。彼女の卒業カードには「人生の重心を求めてもう一つのコマを回して下さい」と書いた。彼女は就職したが仕事がなかなかうまくいかず,何度か職場を変えた。最終的には,理科教室でいきいき仕事をしている。
豊島かおりという生徒は,上田町子のようにぐったりとしている生徒だった。クラスにはわかるおもしろさが広がってきており,テストを返却されて悔しがっている生徒がたくさんいたが,自分は悔しがれるところがなんにもない,と下を向いていた。彼女は「家に帰ってプリントやってみる,投げ出す,もう一人の私がいて,向き合って勉強し直す」ということを繰り返していた。そのうち,「プリント教材を上からやり直してみると解ける」ということに気づいた。彼女は,闘う自分と勉強の方法をつかんだ。この生徒との出会いを通して,生徒達の内面に顕在化しないでたまっていた楽しく分かることへの欲求がどれだけ強いかということがわかってきた。

(4)3学期の授業づくり(1982〜1986年)
@微積分ノートの破綻
 この頃になると,高校は普通科になっており,大学進学をする生徒も増えてきていた。にもかかわらず,「微積分ノート」というレポート用紙150枚くらいの相当大変な課題を,3学期の課題としていた。それに対して,「かぼちゃ買うのに微積がいるか!」とすごい反発を受け,授業は崩壊した。

A新しい課題
 そのような中で,遠山啓『数学は変貌する』を教材として3学期いっぱいかけて読ませ,それをもとに卒業論文を書かせることにした。
 皆川ゆり子の卒業論文は,当初「私の数学は」というタイトルだった。「内容に即したタイトルをつけられないか」と言ったら,「努力のない心から努力のある心へ」とつけた。近代数学を通して数学の歴史を学んだことで,「数学12年目にして180度変わった私」とまで書くようになった。物理,数学などを学んでいるが,それらを総合化して一つの視点にしていくような,一つの流れの中に位置付けるようなことをほとんどしていない。しかし,皆川ゆり子との出会いで,それがどれだけ重要なことかということがわかってきた。
 また,「人の役に立ちたい」と自衛隊への進路選択を考えている生徒がいた。彼女はもっと視野を広げて考えることができるのではないかと考え,岩波ジュニア新書『私の少女時代』と,自分が教師になる過程を書いた手紙を渡した。そこには,「理性の力」「アウフヘーベン」という言葉を書いた。それを読んだ彼女は,「自分の新しい道が開けた」と言って自衛隊から進路を変更した。そして会社に勤めて働いていたが,倒れてしまった。その時,高校時代の夢を見て「理性の力」「アウフヘーベン」という言葉を思い出し,「もう一度やり直そうと思う」という手紙をくれた。高校時代ってそんな時代なんだ。

(5) 高校3年間の授業づくり(1987〜1989年)
 初めて,1年生から3年生まで持ち上がりで教えることができた。教師側の「授業づくりがんばるぞ」という気持ちと,生徒側の「高校入ったら勉強がんばるぞ」という気持が出会うと,飛躍するということを実感した。
 生徒は,古代の数学なんかに興味ないだろうと思っていたら,案外興味を持っていた。中世の学問では,ローマ帝国の支配と関連して,運動というものを避けており,数学は静的だった。そして,デカルトが座標を発明することによって,分析と総合という研究方法を実演し,その威力を示して見せた。この座標の始まりが,近代数学の始まりである。生徒はそういうことに興味をもっている。「近代数学の関数」の箇所で「関数は物事を見るめがね」というように出てくる。「理性的に見るめがね」を手に入れるために勉強するんだという視点を持って,90年代の授業づくりをしていた。
 中里百合子という生徒は,「私の数学12年」という卒業論文で,すばらしい論文を書いた。彼女は高校に入ってくるまで,自分は数学が苦手だと思っていた。彼女は,能力がなくてつまずいたのではなく,本質的な問題に突き当たったのでつまずいたのだ。
 いくつかの大学で,教育方法論の授業を担当している。そこで書かせた感想の裏側に,本質を抜きにして操作だけを教える,現在の数学教育の問題点が見える。学力問題は深刻であり,本質を学ぶことによってわかる楽しさを追求しなければならないと思う。

 仲本先生から以上の内容をお話しいただいた後,フロアーとの質疑応答の時間が設けられました。そこでは次のようなやりとりがなされました。フロアーからの質問の内容とそれに対する仲本先生のコメントを,箇条書きでまとめます。

  • 先生がチャレンジしてこられた新しい学び,気づきの連続はなぜ起こるのか。それは、操作主義的な数学の前提がある生活と切り離された学習者にとって意味を持つのではないか。一方で,もともと生活から学んできた,違ったストーリーを経てきた学習者にとっては,どんな意味を持つのだろうか。
    →違った学びをしてきた子どもたちには,ほとんど出会ってこなかった。しかしそういう子どもたちも,つまらないとはならず,連続した学習として捉えられるのではないか。むしろ力を発揮してクラス全体をひっぱっていってくれることを期待する。
  • 他教科の教師の実践にどういう影響を与えたのか。
    →数学の授業を通して「ルートトランプ」をやったら,これを見ていた化学の先生が,化学でこれに当たるものをやるといったように,他教科に影響を与えていくことは,少しはある。ただ,教科書通りに教えることが蔓延しているので,そう簡単につながっていくことはない。
  • 他教科の学習にどういう影響を与えたのか。
    →技術だけ教えている国語の小論文の指導を越えているのではないか。本当に書きたいものをつくって書いていくことを経験できるのではないか。
    また,数学史をやることによって,歴史をどう見るかというめがねができる。たとえば,ガリレオの言論弾圧と長崎市長の言論弾圧とがつながってくる。他の教科の点数が上がるというわけではないが,めがねが変わっていくのではないか。
  • 仲本先生の実践はおもしろいが,自分にはできないという風に思ってしまう。
    →普段の授業の中で,他の先生と同じペースでやりながら,因数分解が出てきたら投げ込み教材(10分)でできる。1学期で2回やれば上出来。1年間終われば「すごくよかった」という授業になる。そんなに大変なことではない。
  • わからないという経験から「数学ってこういう意味があったのか」という発見につながるのだが,数学を受験の道具としてきた学生,感動することを忘れてきた学生たちにどう働きかけることができるのか。
    →彼らが持っているかけ算ならかけ算のイメージをたたき壊し,概念砕きをしなければならない。かけ算ならかけ算の説明をさせて,追及していき,学生が説明不能になったところで,新しい説明をしてやる。
  • かつて教えていた理学部数学科の学生で,「『マイナス×マイナス』の意味が本当に理解できるのは,公理体系をしっかり学んでからだ」という学生がいた。数学を専門にしている人にとっては,実在との対応とは違った理解のあり方がある。これについてはどう考えるか?
    →専門的な形でも説明することでもできるが,ごく簡単に説明できる問題でもある。なぜそれを肯定しないのかがわからない。この説明が本当の理解ではないということはいえないのではないか。                 
文責:八田幸恵
(京都大学大学院)