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2013年6月1日 
  教員養成における”質”保証の論点は何か?

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  授業に活かす評価のあり方をめぐって

2011年6月11日 
  教育目標・評価研究の20年を振り返る
 
2010年5月22日 
  専門職として学び合うコミュニティを
     支える評価の構造


2007年6月16日 
  日本の学校接続の課題
   ―欧州の動向を踏まえて―


2006年6月10日 
  糸賀一雄の魂と思想


2005年7月9日 
  新しい世界の発見、新しい自分の発見
   ―『学力への挑戦』とその後―


2003年5月10日 
  高等教育の人づくりと,企業社会の人づくり
    ―目標・評価論における,
       教育学の固有性とはなにか―


2001年4月28日 
  指導要録改訂で評価はどう変わるか

1998年5月31日
  第1部:教育課程改訂の彼方に21世紀の
       評価研究をどのように展望するか
  第2部:教育改革の展開に即して,二度に
       わたる教育課程改訂の特性を明ら
       かにする







2006年6月10日

糸賀一雄の魂と思想
高 谷  清
(第一びわこ学園・前園長)
司会:田 中 耕 治
(京都大学)



 
 さる2006年6月10日(土),京都大学において,日本教育学会の近畿地区研究会との共催で,中間研究集会に替えて谷清先生にご講演をしていただきました。今回も非会員の方が多数参加され,参加者総数40名を越える会となりました。
谷先生は重症心身障害児施設・第一びわこ学園の前園長を務められ,昨年,『異質の光――糸賀一雄の魂と思想』を著されました。今回は,戦後の混乱期に戦災孤児と知的障害児の収容と教育のための施設,近江学園を創設し,「この子らを世の光に」という言葉を遺して,今日の我が国の障害児教育,地域福祉の理論と実践に大きな影響を与えた糸賀一雄の人生を紐ときながら,その魂と思想について,貴重な写真も交えながらお話をしていただきました。以下に,その内容をご報告いたします。

【近江学園を創設した糸賀の心】
――なぜ糸賀一雄が障害児に心を寄せて全身全霊を尽くしたか――
 近江学園ができたのが1946年,終戦の翌年。その時の趣意書や要覧に表れている糸賀一雄の心として,「この子らの,温かく楽しい腹のくちくなる家庭を作りたい」という強い気持ちがあった。そして,その取り組みの中で見えてきたものは,一言で言うと「そのまま」から「あるがまま」へという言い方ができる。「そのまま」というのは,近江学園に入ってきた時の子どもの「そのまま」の姿,子どもの心であり,それは社会の状態を表している。子どもたちを誰も保護してくれない,誰も親身になって心配してくれない。大人は敵と思っている。そういう子が数ヶ月で(長い子は2年とかかかりますが)変わっていく。それは,寝姿が変わっていくところに表れる。表情が変わっていく。そして,嘘をついていたことを話すようになる。特に糸賀が書いているのは,「限りない善意が生まれてくる」ということ。もう一つは,「共感」。気持ちが分かる。そして,小さい子や障害の重い子の世話をする。そしてもう一つは,「向上する」。自主的に勉強する。調理師になりたいということで試験勉強をする。こういう三つのことがある。これが,「ありのまま」の姿。つまり,「そのまま」というのは,その時代の反映している姿を,そして,「ありのまま」というのは,子どもが心の中に持っている人間としての本当の姿を意味している。
「この大人は本当に自分のことを心配してくれている」ということが分かった時に,子どもは忽ち変わる。そういうことで子どもの変わっていく姿,変わった姿から,光が輝いている。

【糸賀一雄とキリスト教と京都学派】
当時の京大文学部の哲学科には,全国から三木清や戸坂潤が来た。みな,西田幾多郎の所に集まってくる。この京都学派は日本で近代哲学を打ち立てたところで,世界的にもレベルの高い哲学を作り上げた。その中心を占めていたのは,カント。いろんな人が,人間とはどういう生き物なのかと考えてきた。これは宗教でもある。キリスト教でもあるし,仏教でもある。一体悪というのはどこから生まれたのか,なぜ人間は悪い心を持つのかというのが非常に大きな問題で,宗教でも,仏教でも,悪いことをしてはいけないという話はいっぱいある。悪の処理に困っている。カントも「悪は何か」ということに非常に困って書いている。そういう哲学的背景を考えると,学園の子どもたちが善意を出してくる,善を出してくるというのは,人間の本質とつながるものではないかと考え,それを糸賀は「光」と表したと思われる。その光は,糸賀の場合はキリスト教であった。「世の光」ということが,聖書の中に何回か出てきているが,その光を感じている。

【糸賀一雄の生育と仕事】
――糸賀一雄の仕事が日本社会の中でどういう意味があるのか。あるいはそれが日本の障害児教育,障害児への取り組みの中でどういうことを切り開いてきたのか――
近江学園で,子どもたちの変わっていく姿を見る。しかし非常に困難があった。近江学園はだんだん障害児の比率が増えていくが,当時十分に食べる物もない。なぜ親のない子,知的障害(その頃は知的障害と言わず, "精薄"と呼ばれていた)の子らに食べ物を与えねばならないのか,ということで,糸賀は非常に苦労した。
年長になっていくと,行く所がない。当時,児童福祉法が1947年にできたが,この児童福祉法というのは制限があった。まず18歳になったら対象ではなくなる(2年間猶予期間があるから20歳まで)。それから,社会の役に立つ子どもだけが対象である。これは戦後ずっと続いている。入る所がない,そして18歳になったら出て行かなければならない。それで非常に困って施設を作っていく。それが落穂寮,信楽寮,あざみ寮,日向弘済学園。必要に迫られて次々と施設を作っていかざるを得なかった。
まずできたのが落穂寮,1956年。これは重度の女子のための寮である。まずこの落穂寮という名前に,糸賀の思想の遍歴が見られる。後に糸賀は,「落穂寮という名前を付けて・・・!」と忸怩たる思いで「あれは間違ったなぁ」と思っている。ミレーの「落穂拾い」のように,落穂寮の子どもたちを拾って救うという考えで付けられた。後に「そうじゃない」ということを言っている。しかし名前は変えられないから,落穂の意味を変えて使っていきたいということだが,対象は非常に重度の人たち。この重度の人から見えてきたことは,一言で言えば,「身辺自立=身辺のことを自分でする喜び」。それまで重度の人たちは,近江学園の,比較的障害の軽い人たちの世話を受けていた。自分は何もしなかった。けれど,重度の人ばかりだから,自分でせざるを得ないということで,少しずつできていく。その喜び―自分の身辺のことが自分でできることがすごく嬉しい。自分の心を自分で扱えることが嬉しい。人間の中にはいろんな嬉しさがある。ここには身辺自立の喜びがある。
 それから信楽寮(今は信楽学園)。軽度の男子で,信楽という滋賀県の窯業,陶器を扱っている。そこでは軽い人が多い。働く喜びが見出される。また,池田太郎が施設長になっていて,民間下宿を始めた。どうしても定員オーバーで寮に入りきらないので,職員が自分の家に預かったのが始まりだが,それが今16軒ある。名前は今,生活ホームからグループホームに変わった。いったん民間の所で住んだ人は,どんなことがあっても施設へ戻らないということが分かってきた。まずそこには,個という自分の空間がある。それは施設にはない。またそこは地域の生活の場になっている。この喜びがある。これを称して池田は「地域に消え行くコロニー構想」と言っている。ここには人間が生きるための個という場所,地域の大事さが出ている。
その次にあざみ寮。これは軽度の女性が対象。偶然そこの近くに編み物の先生がいて,教えてもらって,セーターとかマフラーとか色々編んで,上手に身に付けていく。習いに来ている一般女性よりもよく覚えた。そして教える人も一生懸命になった。物を作る喜び,それを人が喜んでくれる喜び,そしてそれがお金になって,自分の小遣いになっていく喜び,こういう人間の喜びがあった。
 もう一つは日向弘済学園。ここでは農業中心で,働く者の誇りがある。糸賀が半年行って,「全く見違えた,逞しくなって,誇りを持って,自信を持っている」と言っている。自然の中で農業と養鶏をやっている。
 それから一麦寮。ここは田村一二が園長になっていた。「流汗同労」(田村の造語)と言って,ここは軽い人から重い人までいろんな人が一緒に生活していたので,協力関係が見られた。人と人との協力という点が非常に目立っている。
 最後に,糸賀の施設の関係では,びわこ学園。ここは非常に思想的に糸賀のものが見える,発現していく内容になっている。健診に精神発達面の導入をしたという画期的なこともあった。
そして糸賀は,年齢制限があり,社会の役に立つ子という考え方の中で,重大な悩みを持ち,この人たちのことを考えると,コロニーという場を考えなければならないのではないかということで,群馬県にコロニーを作る。これが1966年。今年でちょうど40年になる。それが去年,コロニーを廃止するという方針が出された。東と西の一番大きなコロニーがなくなる。廃止するのがいいかどうか,これはまた考えていかなければならない問題である。社会でちゃんと生活できればいいが(現実にそうなっているか…)。
 糸賀がコロニー構想をしたのは間違いだったという評価もあるけれど,私自身は,間違いだ・間違いじゃなかったというよりは,やむを得ず,そうでなければ生きていけない人たちに対する措置であったという印象を持っている。
それから1960年に精神薄弱者福祉法(今は知的障害者福祉法)ができた。これも糸賀が尽力している。20歳を超えてもいる場所ができた。そして児童福祉法改正が1967年。この時重症児が対象になる。これで初めて,日本の法律の中に,重症心身障害児が位置付けられるようになった。

【糸賀一雄の学生時代】
糸賀は,小学校の頃は,にこにこして,穏やかで目立たない少年だった。そして中学校にも行けたが,やはり,内面の悩みを持っている。孤独であった。憂愁,憂い。なぜ憂いだったのか。この頃は友達が少ない。近江学園の頃の糸賀の姿からは考えられない。近江学園の頃はもうバンバンものを言って,指導力がある。どんな人とも付き合って,相手はものすごく惚れ込む。だから,小・中学校の頃の孤独な様子は全然考えられない。高校時代もやはり孤独で,自分の生き方を探す時代だった。何のために自分は生まれてきたのか。何をなすべきなのか,という中で,キリスト教に接近しながら,しかしなかなか分からないという悩みがある。やがて,房さん(糸賀夫人)に会って,心が溌剌としてきた。そして生きる喜びを感じたのだろう。
次に,京大の文学部哲学科へ行って,宗教哲学を選ぶ。指導教官が波多野精一。西田幾多郎以下,本当にこの頃は煌く人たちが集まっていた。3年で卒業して,京都の衣笠第二小学校に,代用教員として赴任。ここで池田太郎に会って,木村素衛を紹介されて,毎日のように木村素衛の家へ通った。その後県庁時代に近藤壌太郎により秘書課長に抜擢され,その指導力を発揮していく。

【糸賀一雄の思想】
糸賀の思想形成について,幼少期は孤独な心があったのではないか。大学時代には圓山文雄という人と非常に親しい関係にあって(その後圓山さんは山の遭難で亡くなる),その圓山の導きでキリスト教の洗礼を受ける。これが青年期。青年の悩み,社会の変動,キリスト教,そして小迫房との出会い。医学部志望から宗教哲学へ,そして大学時代。自分の道を探しながら宗教哲学の勉強をする。
糸賀は木村素衞の影響をすごく受けている。木村素衞は,「人間というのは自ら向上する生き物である」と言って,教育はそこに焦点を当てられている。勉強できる子もできない子もいるが,まず存在する,絶対的存在そのものをまず受け入れないといけない。絶対愛という言葉,向上愛,それが教育である。大事なのは絶対的存在を受け入れること。それを受け入れれば,そして本人が自分のありのままを出せれば,勝手に自ら向上する心が生まれてくるのだと。それが教育なんだと言っていた。
その次の県庁時代は近藤壌太郎知事の影響を強く受けた。ここでは,思想というよりも行動力を身に付けた。これで糸賀は外面的にすごく変わった。心の中はそう変わったわけではないけれど。いわゆるその後の糸賀はここで形成されていると言える。それで「自乗磨練」ということをよく言っている。「自乗磨練」というのは陽明学の言葉で,行動の中で精神を練磨するという意味。実践が大事だということ。そして田村一二と出会う。
近江学園時代は「温かく楽しい,腹のくちくなる家庭」を志す。これは日本再建につながると糸賀は書いている。そして後には,世界の平和につながると言う。人間の心を表すのに,学園には母子像と友愛がある。母子像は,この子らが世の光であるというのにつながっていく。そして友愛は世界の平和ということ。

【発達保障論】
もう一つ大きいのは,発達保障の科学。これは田中昌人が中心になって打ち立てていった。その中身は三つある。一つは発達の科学そのもの,発達理論。もう一つが発達の保障という理念。それから発達権という人間が生来持っている権利としての発達。この三つを合わせて発達保障の考えと言っていいと思われる。その後びわこ学園が設立されて,非常に重い人が入ってきて,糸賀はまた非常にびっくりする。それまで重い子を見ているが,それよりもはるかに重い。そしてその中で,生きる生命とは何か,生命そのものの大事さ,生きる喜び,共感,自己実現というものを考えていく。そして「この子らを世の光に」ということを考えていく。
発達の科学としては,タテへの発達とヨコへの広がり,操作特性の獲得と交換性の拡大,こういう言葉で田中昌人が提起している。糸賀は「発達そのものは,むしろヨコへの広がりが中身である」という言い方をしている。これらの解明は,発達がおぼつかない子の家族の不安と哀しみ,とりくむ職員のいらだち失望に対して大きな展望を与えた,そして,こういう解明をしていくことが社会変革の原理を内在していると。そして「人格発達の権利」というところにつながるということを提起している。発達保障というのは,個の発達の保障と社会環境を含み,発達権というのは,人間の存在そのものに関わる思想であるとして,現在国連でも発達権ということを言っている。さらに考えなくてはならないのは,人格発達の権利(人格権)の問題。「毎日を生きている喜びを持って過ごせる。ありのままに自分を出せる喜び,嬉しさ,楽しさがあるということが基本的なことではないだろうか」というのが私の考えるところ。この人格権をどう考えたらいいかというのは非常に難しいと思っている。
重症児に会って,生命そのもののために生きる喜び,これは「考え方の質的転換」であると糸賀が言っている。それまでは,生きるそのものではなく,社会の役に立つ人間のみが社会の制度の恩恵を受けるという考えや制度の時代であった。それを,人間の生命そのものと考えるようになる。当時の状況として,東京で島田療育園ができる。治らないし,永久に病気の子どもたちがいる。だからこの子どもたちの幸せは,医療の中で死ぬことである。放置されないで医療を受けて死ねる。そして親が納得する。これが目的であると考えた。糸賀がコロニーという考え方に行かざるを得なかったということがよくわかるので,批判するのではなくて,思想として考えないといけない。つまりその時に,この子らは治らないけども,あるいは病気の子どもという捉え方ではなくて,生きる喜びを持つということが大事であると。そして命そのものが大事にされると。命の発達ということで考えないと,大変なことになる。もしそういう考えでなければ,施設を作ることは飼い殺しになる。

【自己実現と他者実現】
次に「自己実現と他者実現」,これが非常に難しい。自己実現という言葉は何となくはわかる感じがするが,全く言葉の意味と違う内容になっている。自己実現というのは心理学の方で使われているself-realizationということで,より自分らしい自分に近づけるという話に使われるらしい。自分固有な生き方という,ロジャーズの自己実現とか,言葉からはそういうことが何となく感じられる。しかし,糸賀の言う自己実現はだいぶ違う。自己実現というのはもともとどういう位置づけかと言うと,人間の一定の発達段階にある。それは近代。そのもうちょっと前から文化が発展した。その前は動物的な段階がある。分かりやすく言えば,動物の時代というのは弱肉強食である。その次が人間の時代。文化の時代。文化というのが少し発展して個人,個というのが生まれてきた。そしてその個というのは,個を生かすために,他の人,自分以外の人を犠牲にしながら自分を生かしている。他者を踏み台にしながら自分を生かすという傾向がある。これが自己実現と言われる文化の段階である。しかしそこにおける人間関係は,他を犠牲にする人間関係であった。それは可能性自己と言って,他の人は,自分が利用する人である。他人から見たら自分が可能性自己になる。そういう関係が生まれている。そういう人間関係がいつまでも続くだろうか。これが本当の人間の姿,人間の関係,人間社会だろうかということに糸賀は疑問を持つ。そして,これは本来の姿じゃないと。
じゃあ本来人間というのはどうあるべきか。人格的関係を作らなければならない。人格的関係というのは,他者を生かす。他者実現することによって自己が生かされるというのが,本来の人間の姿じゃないだろうかと考えるようになる。それを人格的関係と言って,自己実現を乗り越えなければならないという考え,そういう自己実現を意味している。他者実現で,自分も生かしていくという自己実現。糸賀はこのことを,びわこ学園の重症児を見て感じる。その前は自己実現ということをあまり言っていない。びわこ学園ができてから,「この子らは自己実現をしようと思っている。その姿を見て,それを援助している職員との間に共感が生まれている」と言うようになる。じゃあその共感とは何なのかということで,「人格的共感である」ということを言っている。もう少し言えば,他者実現と共にある自己実現の中に,共感関係が生まれるのではないかと思う。糸賀さんの言う共感というのは,他者実現と共にある自己実現の中にある共感である。ということは,相手から言えば自分が他者となるから,相手も他者を実現する。そういう者同士の関係の中で,ありのままの自分が出せる。そして人間関係が生まれる。これが人格的関係であり,共感である。そのことを象徴的に表したのが,「この子らを世の光に」である。

【この子らを世の光に】
近江学園初期に糸賀によって書かれたものには,「戦争の犠牲にされた子どもを守る,この子らを守る社会,そして社会の要求に応じられる子どもたちにしていく」という一節がある。これがだんだんと,子どもが育っていく姿を見,実践に取り組んでいく中で,「この子どもたちに対する教育は,世界を内面から改造することである。人間と人間が理解と愛情で結ばれるような社会を生み出す。そして,新しい社会の形成に参加していく。それが世界の平和につながる」というように逆転していっている。この子らが良くなることが世界の平和につながるというわけである。
「この子ら」というのは,当時は障害のある子とか悪い環境に置かれた戦災孤児とかであったが,現在で言えば,虐待を受けている子どもとか,貧しい状況の子とか,いろんな子どもたちを含むだろう。「世の光」というのは誰もが潜在的に持つ人間の光で,その子達が「あるがまま」を表出できる環境,そして人格発達の権利を徹底的に保障するということで光を輝かし,個性的な自己実現―これは他者実現と共にあるという意味の―そしてそれが社会の改造ということになっていくのではないか。このようないろんな意味を含んだ「この子らを世の光に」だと思われる。

【抱きしめてBIWAKO】
他者実現による自己実現という時,単に「そうあったらいいな」というのではなく,それには根拠がある。これがあったから人間になった。協力し分配するということを人類がやってきたから,今日の人間が生まれた。労働によって生まれた,二足歩行をすることによって,手を使って労働をして,生産が上がった。精神的なことで言えば,協力し分配するというところから人間の精神が生まれた。それが他者実現による自己実現。単にお題目じゃなく,これが人間同士の関係であるという根拠があるのではないか。
それが「寝たきりの重症心身障害児のために集まってください,そして千円寄付してください」ということで取り組んだ「抱きしめてBIWAKO」であった。これは大変だったけれど,26万人来てくれた。参加者からは,「嬉しかった」「今度はまたいつやってくれるんや」という声が聞かれた。そこに一つの動きを作った。

【最後に…谷先生の言葉から】
私は重症児のこの子らの存在をどうしたらいいのかと,癲癇を止めないといけないとかいうこともありますが,そこがなかなかわからなかった。今思うと,糸賀さんを色々調べてみて,生きていることが毎日嬉しい,楽しい,生きがいがあるということが,人間の一番大事なことだと気づいた。この子どもたち,重症児と言われる子どもたちは,生きがいがあるとか嬉しいとかいう感情はない。わからない。じゃあ何があるかと言えば,生きている一番基礎には,存在そのものがある。
存在そのものが,気持ちがいい。これは栄養があって,体に緊張がなく楽で,そして空気が良くて,温度が適当で。そこで,生理的快=生理的に良いという感覚は脳に伝わる。そういった,嬉しいとか楽しいとかいう言葉になるようなもの,快適な感覚というのはあるはずである。それが,「生きていることが嬉しいよ」といった感じになるのではないか。そういうものが良い状態にあるように,というのが一番ベースにあると思う。
それがどんなものかというと,体の内部の条件を整えるとか,雑音を少なくするとか。音の聞こえ方も私達と違って全部聞こえてくるので。内部知覚・感覚じゃなくて全体としての感覚,内面感覚,これを気持ちの良い状態にするのが一番基礎だと思う。もう少し色々なレベルでは,例えば自分の体を動かせる喜び。別にこれは,食事ができるとかものをつかむという形でなくても,動かすことによる筋肉や神経の働きで気持ちが良くなるということ。それがある程度自主的に動かしていける。それから,今まで分からなかったことが分かっていく喜び―知的な快。これはそんな難しいことでなくていいのだが,「夜が明ける」と認識できなくても,何か明るくなってきたと変化していくのを感じる。それから美しいもの,音楽とか聴いて「気持ちいいな」と感じる芸術的感覚。音楽とか絵とか光とか輝き,そういう美。
生を阻害するものは基本的に不快である。生を促進する状態をどうして作り出すのか。あまりこっちの主観的な思い込みではだめだが。そういうことが,この人たちの生きがい・生きている喜びであり,この人の人格を,一番基本的なところで守っている。これは私たちもそうである。そしてそのことが奪われないようにする。その人の生まれた状態とか障害とか家庭の状態とか,あるいは社会的には,自立支援法で排除していくとか,貧しい人を追いやるとか,そういうことをなくしていく。それがこの人の人格権を守ることであり,それが社会的には人間という人権を守る。そういうことで,この人たちの生きがい・生きている喜びがあるのではないか。それが人格というものにつながっていくのではないか。そして個人個人の違いがある。
そこのところを解明し,明らかにしていって,世の中の人の間に,「そうやって皆が良い状態で生きていくことが人間社会なんだ」ということが広がれば,そういうことを犯すものに対しては,許せないという声がもっと大きくなる。そういうことをするのが今の我々の役割である。そういうことで糸賀さんの意思を継いでやっていきたいと思う。具体的には中身を探究していくということと,具体的な実践をしていく。実践は毎日の仕事もあるし,社会的な知見もあると思う。

記録:竹内理恵
(京都大学大学院)
文責:窪田知子
(京都大学大学院